荻窪新聞 2013年7月18日
荻窪新聞

零戦からロケット技術まで

戦闘機はやがてロケットへ。そして工場は公園へ。
 
「中島飛行機」をご存知だろうか。戦時中にはかの有名な「零戦」や「隼」などのエンジンを作っていたメーカーである。荻窪近くの桃井にはかつて中島飛行機東京工場が立っていた。
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青梅街道を伝って所沢の飛行場へ一本で行けるこの工場は、かつては戦禍の舞台ともなり、また現在の日本ロケット技術のスタート地点ともなった。
 
大正14年当時の井草村では、大工場が出来たことにより、一面大根畑だったこの地は人の集まる街へと変貌を遂げた。その大工場では、世界に名を馳せている戦闘機「零戦、隼、疾風」などのエンジン「栄、誉」などが生産されていたのだ。
 
なぜこの地に大工場が出来たのか。それは鉄道の駅と飛行場を繋ぐ街道沿いであったことが大きい理由の一つだろう。
航空機の生産に必要な資材は、全国各地から現在の中央線、当時の甲武鉄道の荻窪駅へと鉄道で輸送されていた。荻窪駅から青梅街道を経由し中島飛行場東京工場へ、工場からまた青梅街道を経由して所沢の飛行場へと輸送されていたのだろう。
 
天沼陸橋が出来た理由も、この工場で生産したエンジンの輸送を潤滑に行えるようにするためだったとも言われている。

中島飛行機・発動機発祥の地は、戦中・戦後の荻窪に影響を与えた場所でもある。

中島飛行機は高い技術力を持って、航空機業界を三菱重工業と二分するほどまでの、世界有数の航空機メーカーに成長した。
 
しかし戦時中、東京工場は陸軍や海軍の戦闘機・偵察機、民間機などを製造する工場だったため、敵対国の攻撃対象となる。
爆撃による延焼から鉄道を守るために、駅周辺を強制疎開させ空き地にしたことが、後の戦後荻窪駅前の闇市にへと繋がったのである。
天沼陸橋もその戦禍に巻き込まれ、爆撃によって橋梁に穴が空いたそうだ。
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中島飛行機は解体。工場と技術は富士精密工業へと引き継がれる。

そして第二次世界大戦終戦時、アメリカによって中島飛行機は二度と軍需産業に進出できないよう解体、分社され、昭和20年8月富士工業へと姿を変えた。
 
のち5年ほど経ち、富士精密工業へと社名を変えたが、職人たちの技術や団結力は映写機やミシンなどの機械工業、自動車産業などの新事業へと受け継がれることとなった。
 

元中島飛行機の糸川教授によって、ロケット発祥となるきっかけが訪れる。

この時代に、元中島飛行機の技術者であった糸川英夫教授が、富士精密にロケットエンジンの共同開発の話を持ち込んだことが事の発端となった。
 
富士精密工業は東大生産研究所と共にペンシルロケットの開発に携わるようになり、昭和30年、ついに国産初のロケット「ペンシルロケット」を開発、フライトを成功させる。
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「ロケット発祥の地」の碑。真ん中にはペンシルロケットの実物大模型が入っている。
現在、中島飛行場跡の一角では日産プリンス東京が営業している。これも名残の一つだろう。
中島飛行場跡地は赤い部分。現在ではほとんどがURの団地と桃井原っぱ公園となっている。

糸川教授たちの技術は脈々と受け継がれ、今日のロケット開発技術を生み出す礎となる

以後、富士精密工業からプリンス自動車、日産自動車と変遷して今の日産プリンス東京がある。その傍らにはロケット発祥の地の石碑がひっそりと建つ。
 
現在、その土地の多くはURの団地、そして杉並区民の安全を守る防災公園へと生まれ変わり、大きく変貌を遂げている。
石碑以外で過去の歴史の多くは語るものは何も残っていない。
 
帰還のニュースが記憶に新しい探査機「はやぶさ」の名は、糸川教授も開発に関わった戦闘機「隼」が由来の一つであると言われている。そして、調査とサンプルリターンした小惑星の名は、日本初のロケット開発者「糸川英夫」の名にちなみ、「イトカワ」と命名されたそうだ。
 
この土地発祥の歴史と技術が、いかに今日のロケット技術にとって、重要なものであったかを伺えるエピソードである。
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中島 知久平(なかじま ちくへい/ちぐへい、明治17年(1884年)1月1日 - 昭和24年(1949年)10月29日)中島飛行機(のちの富士重工業)の創始者。
糸川 英夫(いとかわ ひでお、1912年7月20日 - 1999年2月21日)。ペンシルロケットの開発者であり、「日本の宇宙開発・ロケット開発の父」と呼ばれる。

戦闘機の技術は受け継がれ、やがて人類の発展へ。石碑は歴史を伝える。

戦前から戦後、そして現代に至るまで。歴史を大きく跨いで変貌を遂げた地である中島飛行機跡地の名残は、『旧中島飛行機発動機・発祥の地』と『ロケット発祥の地』、この二つの石碑を残すのみとなっている。
 
軍需会社であった中島飛行機から、人類を未来へ繋ぐロケットへ。そして現在は住民の安全を守る防災公園へ。
歴史とともに目的は変わりつつも、いつだってこの土地は、「誰かのためになりたい」という強い意思で繋がっているのかもしれない。
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